BLOGしょう先生のブログ
おはようございます。今日もお越しくださり、ありがとうございます。
今日は、歯科とは関係のないコラム「人生の気づき」コーナーです。
お暇なときに、お楽しみください!
目次
「なんで勉強せなあかんの?」
みなさんは子どもの時、こんなことを思いませんでしたか?
もっと遊びたいのに、勉強勉強って、うるさいなあ…なんて声が聞こえてきそうです。
勉強をしないといけない理由を大人に聞くと、だいたいこんな答えが返ってきますよね。
「そりゃあ、社会に出てから役に立つからやで。」
「まあ、知恵をつけておくに越したことはないから。」
「人生の選択肢が増えるからなあ…。」
確かに、いろんな答えがあると思いますし、逆に明確なたった1つの答えと言うのも存在しないかなと思います。
そこで、私が思う「勉強をしなければならない理由」を1つ考えるとしたら。
それは、「楽しさを知るため」ではないかと思うのです。
楽しさには2種類ある
「え?勉強が楽しい?はいはい、きれいごと~」って思われたかもしれません。
でも、もうちょっとだけお付き合いください!!
私は「楽しい」には2種類あるのではないかと思っているんです。
1)簡単に得られる楽しさ「快楽」
私が普段使う「楽しい」って「快楽」だと思うんです。
例えば
・テレビゲームで敵を倒す
・テレビで漫才を聞いて笑う
・友達と遊びに行く
などが楽しいの代表格ですよね。
こういった楽しさは、お手軽に得られる楽しさで「快楽」と呼ぶにふさわしいような気がします。
2)努力をして得られる「達成感」
もう1つの楽しさは、努力をして得ることのできる「達成感」です。
例えば
・試合で優勝する
・研究成果が認められる
・受験に合格する
などがあると思います。
先ほど、テレビゲームは快楽と書きましたが、もしeスポーツとしてゲームに取り組み、大会で勝ち上がるとしたら、それは「達成感」のカテゴリーになります。
快楽と達成感の違い
快楽と達成感、どちらも楽しいと言えるのですが、何が違うのでしょうか?
叶えるまでに要する時間
まず、快楽というのは割とすぐ手に入れることができます。
達成感は、長い間努力して取り組んだ結果、手に入れることができるものです。
叶う保証があるかどうか
快楽というのは基本的に得られないことがありません。
例えばゲームが面白くなかったとしても、違うゲームをやれば楽しめますし、漫才が多少面白くなければ、違うチャンネルに変えればまた快楽は得られます。
それに対し、達成感は必ずしも得られるわけではありません。
一生懸命努力しても試合に負けてしまったり、研究成果が出なかったり。
受験も1発勝負で、成功する保証がないところが、怖いですよね。
その分、うまくいった時が「楽しい」わけです。
試行錯誤が必要
遊びレベルのゲームであれば、もし倒せない敵がいればレベルを上げれば倒せます。
友達と遊びに行けば、何もなくても楽しい一日になります。
でも、達成感を得るためには試行錯誤が必要です。
優勝するために対戦相手を研究したり、自らの技を磨いたり。
研究成果を出すためにお薬の濃度をちょっとずつ変えてみたり。
月単位、年単位での調整が必要になるわけです。
簡単に得られる「快楽」的な楽しさだけでは、人は成長できない
簡単に手に入れられる「快楽」は本当に楽しくて、できることならそれだけをして生きていきたいなって人も多いかもしれません。
ただ、そういった「快楽」的な楽しさだけでは、人は成長できないことを知っていますし、心のどこかで「達成感」を得ることに憧れを持っているのです。
だからこそ、オリンピックやパラリンピックではスポーツ選手を応援し、尊敬します。
将棋のタイトルを取った棋士に、畏怖するわけです。
どこか他の人とは違う、成長した姿に感動し、憧れているのではないでしょうか。
勉強は「達成感」を比較的得やすい
あなたが、私が、そして世の中の多くの人が「オリンピック・パラリンピック」に出ることは現実的ではないでしょう。
また、何かで素晴らしい研究成果を出すことも、難しいでしょうし、将棋のタイトルを取ることなんて、駒の動かし方すらよく分からない私には、永遠に不可能でしょう。
いろいろな素晴らしい活動がありますが、そのどれもが難しいことであるなかで「勉強」というのは、比較的達成感を得やすい種目ではないかと思うのです。
まず、相手がいない、ということ。
そして、身体能力に依存しない、ということ。
だからこそ、ちゃんと頑張れば、達成感を得やすい種目であると言えるのではないでしょうか。
2種類ある喜びのうち「達成感」を得られる喜びの中では、勉強は比較的目標を叶えやすい。
つまり「叶えるまでに時間がかかり、頑張ったからと言って叶わない可能性もあるし、年単位で試行錯誤が必要」だけれども、頑張れば叶う可能性が高まりやすいのが勉強ではないか、と私は思うのです。
だから、勉強は達成感という喜びを知るために、行っているのです。
この理屈だと、別に勉強ができなくても良い
勉強は達成感という楽しさを知るため。
そう考えると、別に勉強ができなくても良いということに説明がつきます。
勉強以外に達成感の得られるものが見つけられたら、それで良いってことなんです。
世の中には「勉強はできなかったけど、今では立派な●●になりました。」という方は少なくないですよね。
立派な何かになっておられて、その極めた道で達成感を得られているなら、勉強ができなくても良いと思います。
幼少期から打ち込める何かがあり、年単位で根気強く試行錯誤を重ね、それを楽しみとして乗り越えていけるような人であれば、勉強をしなければならない理由はない。
これが私の持論です。
だから逆に、これといって打ち込める何かがあるわけでもなく、なんとなく好きなことはあるけど年単位で根気強く頑張れるほどのことがないなら、勉強を頑張って、達成感という楽しさを知る必要があると思います。
テレビゲームで得られるような快楽的な楽しさだけしか知らなければ、根気強く頑張ることもできない、試行錯誤も重ねない人になってしまいます。
なぜなら、その先にある達成感という楽しさを知らないからです。
困難と言う山の向こうにある達成感を知らない人は、その山の手前で心が折れてしまうのです。
そうなってしまっては、成長が期待できません。
いかがでしたでしょうか。
私の考える勉強をしなければならない理由。少しでも参考になれば嬉しいです。
今日もお読みくださり、ありがとうございました!
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