BLOGしょう先生のブログ

伝わる言葉を使うと、伝えられる人になる

一昔前に「卍(まんじ)」という言葉が若者に流行っていたとニュースで見たことがあります。

私はどういう意味なのか若者に聞いたのですが、若者もイマイチ分かっていないというか、なんとなく使っているけど、特に深い意味はないという印象でした。

 

卍について聞いて、思い出した言葉があります。

それが、私が子どものころ、流行り出した言葉で、「やばい」という言葉です。

もともとは「危ない」に近い言葉で、ちょっと悪ぶってる子とかがカッコつけて言う言葉だったはずです。

例えば「子ども」のことを、やんちゃな男の子がカッコつけて「ガキ」と言う感じです。

 

それが、いつのまにか良い意味でも、悪い意味でも使われるようになりました。

例えば、こんな風に使われます。

「この写真見て!!」

「え、やばいー!」

 

そしていつのまにか至る所で「やばい」が連呼されるようになりました。

寝坊して「やばい」

朝ごはんおいしくて「やばい」

電車でイケメン見つけて「やばい」

新しい教師の服装が「やばい」

勉強難しくて「やばい」

お腹空きすぎて「やばい」

 

もはや、全部やばいで乗り切れるんじゃないかってぐらい、「やばい祭り」が起きました。

私は子どもながらに、なんとなくこの風潮は危険ではないかと、思っていました。

 

 

1)育ってきた環境が違う人には使えない

みなさんは普段、基本的に近い価値観の人や、生活環境の似たグループで生活しています。

分かりやすいのが高校生。

彼ら、彼女らは小さな教室という単位でほぼ社会が成立しているので、

「やばい」だけで意思疎通ができます。

「やばい」が表現する範囲が、おおよそ同じなんですね。

 

ところが、歯科医院での会話となると、そうはいきません。

例えば

患者「先生、右上の歯が痛むんです」

先生「うわ、これはやばいですね」

先生にこんなこと言われたら、不安になりますよね。

やばいって、治療が必要なレベルなのか、歯を抜かなければならないのか

分かりません。

 

ただこれが歯科医師同士でのプライベートな会話であれば

ある程度その「やばさ」は共有できます。

同じ社会に生きているからです。

 

つまり、仕事の場や、まったく環境の異なる人と話すときほど

「やばい」というなんにでも使える表現は使えなくなるのです。

 

 

2)そもそも、共有できていない可能性

また、違った見方もできます。

冒頭に書いたこの会話

「この写真見て!!」

「え、やばいー!」

実はどんな受け取り方もできますよね。

写っている人が変なのか、かっこいいのか、

背景が素晴らしいのか、暗いのか、はたまた心霊写真なのか。

 

そして、見てくれる?と言った側も、何を見てほしいのか伝えていないから

最悪、2人が見ている物は違う可能性だってあるのです。

でも、それで会話が成立している。

不思議な会話の完成です。

 

 

語彙力がないと、感覚共有ができない

「卍(まんじ)」や「やばい」は便利な言葉です。

解釈の広い言葉なので、受け取る側の自由度、話す側の自由度が高く

そのおかげでふわっと会話を終わらせることができます。

言葉による無駄な衝突を防げるわけです。

 

ただ、そういった解釈の幅が広い言葉ばかりを使っていると

自分でも自分の感情をうまく表現できない人になるのではないか?

私はそう感じています。

伝わる言葉というのは、その言葉の持つ定義が比較的少ない言葉なのではないでしょうか。

それは決して便利な言葉ではないけれど、自分の気持ちを伝える大切な言葉。

 

私は読書が好きなのですが、本にはキラキラした言葉が、いろんなところにちりばめられています。

誰が読んでもなんとなく主人公の感情が分かる。

そんなキラキラした言葉に出会えるのが、本なんじゃないかな…と思っています。

 

人生の中で出会った、優しい言葉、輝く言葉を、大切にしていきたいと思います。

今日もお読みくださり、ありがとうございました!

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